中学や高校の歴史教科書で「自由民権運動」を習った中で板垣退助や後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らの名は聞いたことがあっても「海内果(かいない はたし)」の名前は誰も聞いたことがないでしょう。
ところが、彼は同時代の先頭集団に居て、今では有名な歴史上の人物と同じレベルの活躍をしていたのである。
ここに『新訂 富山県の歴史と文化』(昭和38年3月10日印刷・昭和38年3月15日2版発行 青林書院新社刊)という小冊子がある。
富山県の歴史と文化のあらましをまとめたもので、縄文から戦後の経済成長期にかけてまでの歴史・文物について著されている。。
この冊子に彼について記述されている部分を紹介する。(以下、同誌などより)
海内 果 (かいない はたし 1850‐1881)は嘉永(かえい)3年10月23日今の富山市中老田の生まれ。
岡田呉陽にまなび、小杉町の増田盛典(ますだ もりのり)らと「相益社」を創立し、『相益社』を発行した。
(氏名は「かいない はたし」が正しい。「うみうち はたす」などとあるは誤記。海内姓は今も少ない苗字です。身内関係者が言うのだから間違いなし。)
海内は自由平等の思想と富国強兵の必要を説き、特に商業を重んずることを主張した。この考えは、後の越中改進党に受け継がれた。
彼はその後、明治9年「東京日日新聞」の記者となったが、明治14年に帰郷し9月21日死去。(32歳。)
若くして他界したため知る人は少ないが、「地租改正」論なども著していて、短かった天命が惜しまれる。
彼の志を継いだ相益社の一人、大橋十右衛門が高岡の片岡町に『越中義塾』を設けた。この塾では洋学を主とし、
原書によって外国の歴史・法律・経済・自然科学などを教えた。このころ民権運動は広く行なわれ、土佐の立志社の影響も各地に及んだ。
越中では外からの呼びかけに応じたばかりでなく、地元の地主や先覚者に指導されるところが少なくなかった。
(以下は下の画像から。)
海内 果 を「うみうち はたす」などとふりがなをつけているページがあるが、明かな間違い。
出典は下記:「新訂 富山県の歴史と文化」。(外戚の末裔が言っていることでもあり間違いはありません。)
それにつけても皆さん、お互い養生して天寿を最大限伸ばそうではありませんか。
われわれ凡人は「長生きしてこそ『元を取る』ことができる」というのが管理人の持論ですが。
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【海内 果 (かいない はたし) 関連ページ】
富山市立老田小学校 (toyama-city.ed.jp)
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